患者と医師 2

最近こういうニュースを見ました。

私はやっていない 37歳女性の訴え

記事には以下のようにあります。

「私が●刑事を信用してしまったのもあかんし、好意を持ったこともあかん。それでみんなに辛い思いさしてしまって、ごめん」(西山受刑者からの手紙)

取り調べにあたった刑事に好意を持ち、その刑事に言われるがままにウソの自白をしてしまったというのです。実は西山さんには、人の言うことについつい迎合してしまう傾向があると精神科医が診断しています。西山さんの両親はそうしたこともあって、西山さんが殺害を認める供述をしたのではと考えています。

刑事がウソの自白をさせて冤罪を作り上げたのか?真相が再審で明らかになることを望みます。ちなみに、意図的に誘導したのかどうかはともかく、刑事は彼女が「犯人」だという予断を持って取り調べに当たったことはまちがいありません。

さて、このニュースを見て思ったことは、同じことは診察室でも起こるのではないか、ということです。

患者は権威者である医師に合わせる傾向があります。それが自分の利益にならない場合でも。医師患者関係にはこういう落とし穴があるのです。

患者と医師

医師が、意図せずですが、患者を誘導してしまうことがある、ということです。

そして、記録についても考えました。

取り調べ記録は調書という形で残されます。調書は読み上げられ被疑者が同意すれば署名捺印します。その同意がどこまで自由意思に基づくか疑問の余地はありますが、少なくとも形式的には調書の文面に被疑者は同意しています。

一方診察はどうでしょうか?記録はカルテに残されますがそこには患者の同意はありません。(原則として)患者の側が開示を求めれば閲覧はできます()が、それは事後的なものです。記録自体は患者の同意を得ず行われます。

この違いはどこから来るのか、それでよいのか、ということは今は置きます。ここで見ておきたいのは、カルテの記録が医師側の一方的な記述であることです。診察室の中での出来事は取調室と似て、患者と医師の関係の中で起こっています。そこで患者の言動や所見だけを切り出して医師が記録することで抜け落ちることがあるのではないでしょうか。

これで思い出すことがあります。医師になって3,4年目の頃の記憶です。


その頃、長期在院者の多い病棟で勤務していました。デイルームや詰所のあるフロアから数段の階段があって、その奥に廊下をはさんで病室が並んでいる、という構造。

いつもその階段に座ってぶつぶつ独り言を言っている患者さんがいました。

病室に行くときに通りかかって「どうですか?」と声をかけると、その人は必ず「よろしいです」とちょっと独特の言い方で返事をします。「紋切り型(stereotypy)」という精神医学用語があります。表情も固く自発的な言葉もないその人の、抑揚のない「よろしいです」は、まさにこの用語が当てはまりました。

しかし、このやりとりを繰り返しているうちに気づいたのです。

この人がいつも同じように答えるのは自分が「どうですか?」と同じことを言っているからだ、ということに。むしろ「紋切り型」は自分ではないのか?

そこで言うことを変えてみることにしました。

病室に行くとその人はたいていベッドに寝ていましたが「今日はいい天気ですねえ。」とか、外の花壇を見ながら「花咲きましたね。」とか、話しかけるようになりました。返事はなかなか返って来ませんでしたが、そもそも返事があってもなくてもいいような言葉かけだったので特に気にしませんでした。

どのくらい経ったのか憶えていませんが、そのうち「花咲いてますね。」と言うと「そうだね。」とか返って来るようになりました。短い返事でしたが、そのときは、一緒に花を見ている、という手応えがありました。

その人は20年以上は入院していましたし、17年間(何故か記憶に残っている)実家に外泊したこともない人でしたが、ある日、「外泊してみようかな。」と言いました。それがきっかけになって退院につながって行きました。退院先は実家だったかアパートだったか…憶えていません。

大したことはしていないのですが、それでも自分とその人が短いながらも会話を交わすようになったことが変化をもたらしたことは確信しています。実際、その人は私を信頼してくれていました。


「関与しながらの観察」とはサリヴァンの言葉です。カルテのような記録からは関与する側の医師は見えて来ません。精神科では、患者さんの言動の記録はそのまま「病状」の記録と見なされることも多いです。

この患者さんの場合は、階段でのやりとりはたとえば

S>よろしいです
O>階段に座って独語、声をかけるとハッとする、表情硬い、抑揚乏しい
A>紋切り型、自閉的

のようなカルテ記載になるのでしょうか。ここには「どうですか」と「紋切り型」の声をかけている医師、形だけの声かけで「自閉的」な医師は姿を消しています。これは何だか怖ろしいことです。関係から切り離された個人、という影、虚像が実像と取り違えられる、とでも言うのでしょうか。

「犯人」と予断することで刑事が無実かもしれない人を「犯人」に仕立て上げてしまうことがあるのと同様、「病的」と予断することで医師が患者をことさらに「病的」な存在に仕立て上げてしまうことがあります。そしてその場にいた刑事や医師は記録の書き手として記録本体からは姿を消します。

違いは、カルテには調書のような署名捺印はないし、診察は取り調べのように録画されないことです。果たしてそれでよいのか。よくないとしてどのような対策があり得るのか。医師である自分の課題として考えて行きたいと思います。

クリニックちえのわでは、ご本人のお申し出があれば電子カルテの画面の閲覧、プリントアウトができます。診断書などは文面をご本人にお見せし同意を得てから発行しています。