それは「感情失禁」なのか?

看護や介護の現場で、怒りっぽい人などを指して「感情失禁」と言っているのを耳にすることがあります。

私はそれに違和感を覚えます。

「感情失禁」の本来の意味

そもそも「感情失禁(emotional incontinence)」というのは、認知症などで喜怒哀楽の感情が抑制できない場合に使いました。尿失禁(urinary incontinence)が尿をとどめておけず漏れてしまうことと同じです。特に悲しくなる状況ではないのにウルウルする認知症の高齢者が感情失禁のモデルでしょう。前頭葉機能が衰えるなどして感情変化を抑えることができなくなるということです。仕組みとしては飲酒したときの泣き上戸と似ています。

これに対して、
躁状態で怒りっぽくなっている人は精神科では「易刺激的(irritable)」と言って「感情失禁」とは言いません。
うつ状態ですぐに涙が溢れてくる人も「悲哀的」とは言っても「感情失禁」とは言いません。

ある人が泣いたり怒ったりするのを「感情失禁」と呼ぶ場合、その状態を単に記述しているだけでなく、それを脳機能(前頭葉または右大脳半球)の低下によるものとする解釈を含みます。その人が高齢者であれば、認知症の症状と見なしていることが多いと思います()。

精神医学用語にはこういう性質があります。たとえば「支離滅裂」(incoherent)は統合失調症という診断と切り離せません。
話の辻褄が会わなくても、その人が統合失調症でなければ「支離滅裂」は言いません。

「怒りっぽい」でよい

私が研修医のとき、こういう用語は使わずにふつうの言葉で記述するように習った記憶があります。「怒りっぽい」「涙もろい」と書けばよい、その方が余分な解釈・診断を加えないだけよい、ということです。

「感情失禁」という言葉を使ってしまうと、その人の感情表現を額面通りに受け止めなくなるという問題があります。仮にその人が認知症であっても、泣いたことを感情失禁と見なされると、人は泣いた理由を探さなくなるのです。

そもそも「感情失禁」とはこういう問題のある言葉なのですが、精神医学領域から周辺に広がるにつれてどんどん意味があいまいになってしまいます。
認知症との結びつきもなく、単に怒りっぽかったり涙もろかったりする人に簡単に「感情失禁」のラベルを貼ってしまったりします。
これでよいのでしょうか?

精神医学由来の言葉をあえて使うことはマイナスはあってもプラスはないはずです。「怒りっぽい」「涙もろい」「感情の波が大きい」と普通の言葉で記述した方がよい、と私は考えます。

精神医学用語の乱用をやめよう

このような精神医学用語の拡散、乱用は他にもあります。たとえば「発達障害」もその1つかもしれません。学校や行政の関係者、いや、最近は社会全体に、この言葉を拡大解釈する傾向はないでしょか。クラスや職場に馴染みにくい人に「発達障害」というラベルを貼りたくなり、そのお墨付きをもらうために精神科受診を勧める、ということが起こっているのではないでしょうか。それが本人の利益になればよいのですが、ラベルを貼って排除してしまうことを恐れます。

こういう例は他にもありそうです。

精神医学用語というのはそれぞれ定義があって、その上で精神科のエキスパートならそれが当てはまる典型例を知っているはずです。それに従って一見似通っていても、これは「感情失禁」、これはそうじゃない、と区別して使えなければなりません。
ただし、専門用語とはいえ日常言語から派生したものです。字面で何となく分かる気がするのでそういう区別はすぐに曖昧になってしまいます。
なるべく普通の言葉を使う、専門用語を使うときはその意味をよく知った上でそのマイナス面を考えて使う、間違っても知ったかぶりをするためには使わない…このことを肝に銘じたいと思います。

…ところで、昨日、正社員として働き始めた、という患者さんからのメールを見て、思わずウルウルしてしまいました。その患者さんのこれまでの苦労を知っているとはいえ、泣くほどのことではないように思います。「感情失禁」とは言えなくても、年を重ねるにつれて涙もろくなっているのは事実のようです。

 

『精神医学事典』(1994年)の「情動失禁」の項目には

わずかな刺激で、泣いたり、笑ったり、怒ったりする状態で、情動の調整がうまくゆかない。脳血管(性)障害、老年痴呆などの脳器質疾患に多くみられるが強い疲憊状態でも起こるし、一般的に老人にみられやすい。(保崎秀夫)

とあります。

また濱田秀伯『精神症候学』には、

情動失禁では、わずかなことで泣いたり笑ったりするが、刺激と反応の間に内容の関連が一応保たれており、主に老年痴呆、多発梗塞性痴呆など広範囲な脳器質疾患にみられる。

とあり、「強制泣き、強制笑い」をこれと区別しています。

関連のない刺激から不随意に表情運動が誘発されるのは強制泣き、強制笑いであり、表情に一致した感情が伴わず、患者自身も異様に感じるが抑えられない。表情運動の一種の解放現象とみられるが、病巣は脳幹、視床・視床下部から前頭葉、側頭葉などにあり仮性(偽性)球麻痺を伴うことが多い。脳血管障害、筋萎縮性側索硬化症、頭部外傷、マンガン中毒などに生じる。

ただし、「強制泣き、強制笑い」と同じ情動調節障害(pseudobulbar affect)が、感情失禁と同じ意味とされることもあります。

Pseudobulbar affect (PBA), or emotional incontinence, is a type of emotional disturbance characterized by uncontrollable episodes of crying and/or laughing, or other emotional displays.(Wikipedia)

「感情失禁」は医学用語としても曖昧さが残る言葉のようです。そうであれば余計に使わないに越したことはありません。