将棋で負けてうれしかった話(2006)

誰が「常同症」なのか世界で二番目の美人、と同じく、昔に書いた文章です。

現在の研修制度は、最初の2年間は内科を中心に各診療科を回って医師としての基本を身に着け、その後、それぞれの専攻領域で3年間後期研修を行います。

私が研修医だった20数年前はそうではなく、最初から各科に分かれての研修でした。しかも、現在のように研修医教育が整っておらず、いわば徒弟制、先輩医師の見よう見まねで学んで行きました。そのため、臨床医学全般については言うまでもなく、精神科領域に限っても、スタンダードを身につけることができたとは言えません。「エビデンス」という言葉はもちろん「ガイドライン」という言葉も聞かなかった時代です。身につけた知識やスキルはずいぶん偏ったものだったと思いますし、後に学び直しが必要になりました。

とはいえ、悪い点ばかりではありません。今の研修医と違い、自由な時間がたっぷりありました。おかげで入院患者さんと医師ー患者という枠組から少し離れた交流を持てました。そこから学んだことが私の医師としての土台になっているように思います。

そんな研修医の頃のエピソードです。文中のK君は私が最初に担当した患者さんのうちの1人です。


将棋は負けるとすごく悔しいゲームである。
囲碁と違って勝つか負けるかの二通りしかない。
しかも負けたとき、ポツンと取り残された駒や、
まして王様の逃げ道を塞いでいるだけの駒を見ていると情けなくなる。

これは僕のようなヘボ将棋でもプロの将棋でも同じである。
年配の患者さんで、囲碁も将棋も好きな人が、
「将棋はしんどいので最近はもっぱら囲碁」
と言っていたのを思い出す。

だが、僕には将棋で負けてうれしかったことが一度だけある。

研修医の頃の話。
自閉症で、軽度の知的障害もある少年(仮にK君)の受け持ちをしていた。

「軽度」というのが曲者、こういう人が生きていくのは実はなかなか大変だ。
彼は普通校に通っていたが、成績は最低、友だちもいない。
親も彼の障害、特に自閉症についてはまったく知らず、
そのために彼の気持ちや行動が理解できず、親子関係は最悪だった。

その彼が事件を起こした。
人を傷つけたりするような事件ではなかったが、
地域で生活するのが難しくなるような事件だった。
彼は居場所がなくなって入院となった。

僕が受け持った時点で入院は一年以上になっていた。
入院が長期化した主な理由は、彼が両親を嫌って面会すら拒否している、
ということにあった。

僕は研修医だったし、彼に対して何ができるかよく分からないまま、
とりあえず彼の好きな将棋の相手をしていた。
彼は弱かった。

八枚落ち

 

駒落ち(強い方が駒を減らすハンディ戦)でないとゲームにならなかったし、八枚落ちでも僕に勝てなかった。

 

 

 

 

 

僕はわざと手を抜いて負ける、ということはしなかった。してはいけない、と思っていた。

彼の自己評価はとても低い。僕に勝てばとてもうれしいだろうし、
自己評価を少しでも上げることができるかもしれない

…そういう見方もあるかもしれない。
でも、僕はわざと負けるのは失礼だと思ったし、それで相手を誉めたとしても、
本気で誉めることはできないのでダメだろう、と思った。

何十局、たぶん百局近く指しただろうか。もちろん僕の全勝である。

しかしある日、ちょっとした奇跡が起こった。
平手(ハンディのない通常の対局)で指していて、僕が負けてしまったのだ。
将棋には偶然やまぐれの要素は少ない。
力の差があれば、強い方が必ず勝つ。

確かに何十局と指していく中で彼はいくらか強くはなっていたと思う。
しかし、力の差は歴然とあった。
だから奇跡と言ってよいと思う。

負けて本当にうれしかった。
「この手はいい手だった」と彼の指し手を誉めた。
本当にいい手だった。

今となっては恥ずかしいが、うれしさのあまり、カルテに棋譜を書いてしまった。
(もしかしたら棋譜の載っている変なカルテは世界で唯一かもしれない。)

彼はその後、家族と面会するようになり、外泊もするようになった。

最初の外泊には彼の頼みで僕が一緒に泊まった。
その夜、彼とお父さんに将棋を勧めたが、彼はちょっと照れくさいのか、
「先生が指して下さい」と言った。
僕とお父さんが指すのを彼は見ていた。

あのときの棋譜を(ちょっと恥ずかしいけど)見てみたい気がする。
そして、彼は今どうしているだろうか。


後日談です。

当時の指導医(発達障害の分野で日本のトップランナーの一人)にお会いする機会がありました。

彼はしばらくして退院することができたそうですが、その数年後に亡くなった、というお話をそのときに聞きました。二十歳になるかならないかだったでしょう。

この記事を今は亡きK君に捧げます。