雑誌『精神看護』の連載「トラウマインフォームドアプローチが必要なケースの現実を書く」の第2回です。引き続きシングルマザーのAさんのケースを取り上げています。
つい最近のことですが、毎日のように人工妊娠中絶の夢に悩まされる、という人がちえのわを受診しました。以前この話を精神科の医師に話したところ「あなたは中絶という十字架を背負っていかなければならない」と言われたそうです。その人はレイプされて妊娠したのです。そうであれば彼女は被害者であり、中絶は二重の意味でトラウマ体験です。医師の言葉は「被害者非難(victim blaming)」であり二次加害と言わざるをえません。
緊急避妊薬のOTC化や中絶薬について議論されている現在、中絶の責めを当事者に負わせる堕胎罪の思想が精神医療の世界にいまだに残っていることに怒りと悲しみを覚えました。
中絶というトラウマ、周産期という危機
前回に続いてシングルマザーのAさんの話をする。Aさんが入院して身体拘束されるに至ったそもそものきっかけは人工妊娠中絶だった。彼女は周囲の意見に従う形で中絶し、その罪悪感に苛まれて精神的不調を来したのだった。
私が中絶の記憶に苦しむ人に遭ったのはAさんが初めてではない。「子どもを殺した」と自分を責め続ける人、中絶処置の記憶がフラッシュバックする人などを思い出す。そのような人に関わる中で必要に迫られ、私は中絶体験が及ぼす影響について調べたり考えたりしてきた。
中絶というトラウマ
女性にとって中絶は決して稀な経験ではない。厚生労働省の2018年の統計によれば、10.4%の女性が中絶を経験している。そのうちの17.1%が複数回の中絶を経験している。2018年に中絶した女性は1000人あたり6.4人で対出生比は17.6%だ。つまり出生6に対して中絶1ということになる。
この数字を見れば過去の中絶体験に苦しむ女性は相当多いと推測できる。ただし中絶体験を診察の場で語る人は多くない。私はたぶん氷山の一角を見ているに過ぎない。これまで診てきた患者の中にも私が気づいていないだけで中絶体験に苦しむ人がかなりいたのではないか。
北村邦夫(2020)は言う。「残念ながら、わが国の場合、「胎児に対して申し訳ない気持ち」(58・6%)、「自分を責める気持ち」(17・1%)が大半を占めています。これでは、人工妊娠中絶手術の後にトラウマ(心的外傷)を残してしまいかねません」。これは私の臨床経験にも符合する。
しかし、中絶の精神医学に関する文献を当たって意外だったのは、欧米では中絶とメンタルヘルスの関係は単純ではない、ということだ。Zarebaら(2020)によれば、中絶の心理的帰結についての研究結果は矛盾している。少なくとも中絶が一様にトラウマ反応を惹き起こすとは考えられていないし、中絶後の精神疾患のリスクは産後のそれより小さいという指摘もある。中絶カウンセリングの評価も分かれる。中絶の影響の多様性を踏まえて個人/社会/経済/宗教/文化的なリスクファクターが研究されている、というのが現状のようだ。
一方、残念ながら日本では中絶についての精神医学的研究は乏しい。が、北村の指摘からうかがえるように、欧米に比べて日本では中絶がトラウマ体験となる可能性は大きいと推測される。塚原久美(2014)は「反復中絶を防止する目的で、中絶手術を受けた女性に、取り出した胎児の遺骸を見せる医師もおり、少なくとも一部の医師には女性が受ける心理的ダメージをケアするという発想が欠落しているように思われる。」と述べ、中絶カウンセリングの重要性を指摘している。
ただし、このような個別的な問題にとどまらず、背景には中絶をめぐる日本の歴史的社会的状況が存在する。周知のように日本では堕胎罪で中絶が禁止されている。その上で母体保護法により一定の条件のもとで中絶が認められているが、これにより中絶には配偶者の同意が必要とされ、中絶法も諸外国のように薬物によるものでなく外科的な手法、それも主に侵襲性の高い掻爬法によるものとなっている。そしてこの中絶に至る過程に関わる産婦人科医のパターナリズムを宋美玄が指摘している。宋によれば、妊婦が「この人は子どもを産まない方がよい」とジャッジされたり、中絶を希望すると説教されたりすることも珍しくないとのことである。
中絶についてのネガティブなイメージ、中絶した人が抱く罪悪感は決して自然発生的なものではない。実際、避妊と中絶の手段にアクセスしやすく女性が妊娠出産を自己決定できる欧米では、中絶と妊娠継続のいずれを選択してもメンタルヘルスに顕著な差はないというデータもある。罪悪感は日本の歴史的社会的状況によって作られた意識ではないだろうか。
周産期という危機
Aさんの話に戻ろう。中絶体験から10年を経てAさんは妊娠した。今回も予期せぬ妊娠(unexpected pregnancy)だった。妊娠が判明してすぐAさんから私に電話があった。今後のことを相談したいと言う。
Aさんの妊娠出産、その後の子育てには困難が予想された。Aさんのような人が「子どもを産まない方がよい」と言われて中絶を余儀なくされたことは数知れずあっただろう。そしてAさん自身もかつてはそうだったのだ。
電話を受けて私はこう考えた。「産むにしても中絶するにしても決めるのは本人である。Aさんがもし決めあぐねているなら考えを整理するおてつだいはしよう。その場合でも最終的には本人が決めて私たちはそれを尊重しなければならない。Aさんがどのように決めても私はそれを肯定し、主治医としてできることをしよう」。
数日後Aさんと私は診察室で話し合った。Aさんは二度と中絶したくないと言う。出産の意思は固かった。
妊娠継続を選んだからと言って、危機は去った訳ではない。そもそも周産期はトラウマティック・ストレスに満ちた期間なのだ。「すべての妊娠はそれが健康なものであっても女性に実存的感情的危機をもたらし、すでに存在する内的葛藤を強める」。Zarebaら(2020)も中絶について論じる前提としてこう述べている。Vignatoら(2017)によれば、アメリカ合衆国の周産期人口の9%が周産期PTSD(PPTSD)であり、さらに18%にPPTSDのリスクがある。Beck(2004)によれば、たとえば人工破膜のような出産時の処置にしても、ケア不足や医療者とのコミュニケーション不全などで妊婦が無力感を抱く場合はトラウマとなり得る。
これは容易に理解できる。妊娠出産子育てを生きる女性は自らの身体を他者に委ねたり管理されたりする上、自身のためというより他者のために生きることを余儀なくされる。そもそも女性はケア役割を担わされることで社会的に弱い立場に置かれる傾向があるが、特にこの時期の女性にそれは著しく、自己決定権やインテグリティ(身体と精神の不可侵性)を脅かされやすい。
そうであれば、この時期にある人に対して私たちができること、なすべきことはまずエンパワメントであり主体性や自己決定を尊重する関わりである。
周産期のメンタルヘルスケア
Aさんに対する支援を駆け足でたどっておこう。真っ先に取り組んだのは服薬である。周産期のAさんは精神的に不安定になることが予想される。私が考えたのは特に出産時のことだ。前述したようにこの時期は大きなストレスにさらされる。経過から考えてAさんの場合は産後うつはもちろん産後精神病も考える必要がある。そのリスクと母体と胎児への安全性を踏まえて服薬について決定しなければならない。
周産期の服薬について私は『向精神薬と妊娠・授乳』をまず参照し、情報が十分でなければ妊娠と薬情報センターに問い合わせることにしている。それをもとにメリットとデメリットを患者にできるだけ分かりやすく伝え、服薬について一緒に考える。Aさんの場合は資料を見せながら説明した結果、抗精神病薬を継続することになった。
妊娠週数が進むについて遠方に住むAさんの通院は難しくなってきた。
そこで出産が近づいてからは往診に切り替えた。往診は患者の負担を軽くするだけではない。周産期の往診では、地域で患者を支援する訪問看護師や保健師が診察に同席できることが大きい。さらに、Aさんについては本人、母、支援者、訪問看護師、保健師、行政担当者などすべての関係者が集まった会議も産前と産後に開くことができた。
クリニックちえのわには周産期の患者も多い。産後うつの人が多いが、多胎児の子育てで疲弊した人、妊娠をきっかけに薬物療法から認知行動療法に切り替えたい人、死産で子を失った人など様々である。このような患者に対するメンタルヘルスケアは十分に提供されているとは言い難い。薬物療法を前提とするような治療が周産期では通用しないのも一因であろうし、そもそもライフサイクルや性差に応じた医療は日本では立ち後れている。
今後私たちは周産期のメンタルヘルスケアにさらに力を入れたいと考えている。その際にトラウマと人権(セクシュアル/リプロダクティブ・ライツ)の視点が不可欠だと考えている。
世代をつなぐ
10代から精神症状に悩まされ入院歴もあるAさんは同年代に比べていわば経験値が低い。社会的スキルも生活スキルもまだまだ不足しているので、Aさんの母、支援者たち、訪問看護師、ヘルパーなど様々な人たちの支援を受けて何とか子育てをしている。幸いAさんの子はすこぶる元気で順調に育っているし、母子関係は良好である。私はそんなAさん母子の成長をできるだけ長く見守って行きたい。それがこれから老いていく私にとって喜びとなり、次の世代、その次の世代への責任を果たすことにもなるだろう。
【参考文献】
伊藤真也、村島温子、鈴木利人編『向精神薬と妊娠・授乳 改訂2版』(2017)
北村邦夫「中絶の実態 「胎児に申し訳ない」 受ける女性の思い」(2020)
厚生労働省 平成30年度衛生行政報告例の概況(2019)
宋美玄 「産婦人科医師の視点から見た ~緊急避妊とオンライン診療におけるメディカルギャップの深刻さ~」(2021)
塚原久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ: フェミニスト倫理の視点から』(2014)
Beck. Birth trauma: in the eye of the beholder. Nursing Research. 2004; 53(1):28–35
Vignato et al. Post-Traumatic Stress Disorder (PPTSD) in the Perinatal Period: A Concept Analysis. J Clin Nurs. 2017 December ; 26(23-24): 3859–3868
Zareba et al Psychological Effects of Abortion. An Updated Narrative Review. Lancet 2014; 384: 1775–88