ザラザラとした現実を生きるー トラウマインフォームドアプローチと生活保護(前半)

雑誌『精神看護』に掲載された文章を一部修正しました。

生活保護は遠い存在ではなかった

私が生まれたのは神戸の下町である。家庭は 決して裕福ではなかった。父は子どもの頃から働いて家計を助けていた人で国民学校高等科卒、母は高等女学校卒。どちらも戦中派であり、今で言うと高卒以下の教育しか受けることができなかった。小学生の頃、父に「大学に行きたい」と言うと「職工* のせがれが大学行くなんてもっての他」と言われた。それでも当時は「一億総中流」と言われた時代である。経済的格差は大きくなかっただろうし、階層間の流動性もあった。実際、私は貧しさを感じたことはなかった。家計の大変さを知ったのは成人してからである。

小学校のクラスに裕福な生徒はほとんどいな かったと思う。生活保護家庭の子もいたかもし れない。しかし見るからに貧しい子は記憶にな い。確かに今ほど格差は大きくなかったのだろう。子どもの私にはわからなかったのかもしれ ない。ただし、わからないことは大事だろう。子どもの中で目に見える貧富の格差があり、そ れでスクールカーストができている、そんな学校は地獄だ。

私は、父の給料に加えて母が知り合いの会社にパートで働くことで、私立中高一貫校に入学することができた。

私立中学校に入った時のカルチャーショック と言える驚きははっきり記憶に残っている。私や小学校の同級生たちより明らかに階層が上の生徒が大半だった。実際に親が経営者であった り医者であったりもしたが、何より立ち居振る舞いや行動様式が違う。ブルデューの言うハビトゥスの違いだ。

小学生時代には知らなかった孤独を感じた。 私は生来内向的なほうだが、中学入学後それに拍車がかかった。もちろん帰宅部だし、もとも とあった吃音も悪化した。本をよく読むように なったのはそのせいだろう。本の世界は楽しみ のない毎日の学校生活からの避難場所だった。

その中で私は『無知の涙』**という本に出 会った。

極貧の中で育ち、学校もまともに行けず、漢 字の読み書きもできない「連続射殺魔」永山則 夫の獄中日記。それを読んでいて、自分の日常、私立受験校での生活が、一層疎遠に、そし て非現実的なものに感じられた。その頃から私は「本物の現実」に触れたいという欲求を持つようになったと思う。

自分の中学生としての日常は唯一の現実ではない。それ以外の現実、むしろそちらこそが本物の現実である、という感覚があった。

私が小学生時代まで生きて来た現実は永山則夫のそれのように過酷ではない。しかし、両親が生きた現実や、その両親が作った家庭というサンクチュアリの向こうは永山則夫が生きた現実へとつながっている、という感触があった。

トラウマインフォームドアプローチを先取り すれば、自分の日常からは見えづらい力(power)がそこではむき出しに作用している。その力によってトラウマが生まれ、再外傷化(re-traumatization)が繰り返される。そんな場所こそが私の生きる場所だ。この中学校やその先 にあるエリートたちの世界は私の生きる場所で はない。ぼんやりとではあるがそう感じていたと思う。

その後紆余曲折はあったが、最終的に 30 代 半ばで私は医師になった。医師を目指したの も、精神医療ユーザーの生きる現実にかかわり たかったからである。そこが自分の生きる場所だと思った。そしてそれは間違っていなかっ た、と今思う。

あえて子ども時代のことを書いた。それには 理由がある。「生活保護利用者とかかわるよう になる前、生活保護についてどのようなイメー ジを持っていたか」と編集者に問われて、特定のイメージが私には浮かばなかったのだ。ある いは編集者はよくある負のイメージを想定した のかもしれない。が、何もなかった。

人は自身とは疎遠な見ず知らずの他者につい てステレオタイプなイメージを形成するもの だ。特に、精神障害者、外国人、LGBT 等々、マイノリティに対してはネガティブなステレオタイプを形成する。生活保護利用者につ いてもそうだ。メディアを通じてあるいは噂話でそれを見聞きする機会は多い。しかし、私にとって、生活保護利用者は疎遠な他者ではな い。まず自分のかかわるあの人この人である。 そして大多数の知らない生活保護利用者たちも、自分と同じ世界に住む人たちと感じる。ス テレオタイプ、特にネガティブなそれを形成することは不可能だ。


工場労働者はかつてそう呼ばれた。そう自称する父 には卑下する気持ちもプライドも両方あっただろう。

** 『 無知の涙 』は現在河出文庫で 読める 。なお、永 山則夫については、彼もまた貧困だけでなく子ども時代に壮絶な 虐待経験を持つ人であったことが明らかにされている。堀川 惠子『封印された鑑定記録』(講談社)も参照されたい。

 

後半「トラウマインフォームドである必要性」に続きます。