子ども虐待 親にもケアを ー『精神看護』連載より

雑誌『精神看護』の連載4回目です。この回が最終回となりました。連載は6回の予定だったと記憶していますが、4回で打ち切りを申し出ました。反響がまるでなかったこと、この雑誌の他の記事との温度差を感じて居心地が悪かったことが理由です。なお、今回の文章のDさんもそうですが、実在の患者さんをモデルにしています。ご本人にはできあがった文章を読んでいただいて許可を取りました。

もし機会があれば、このような文章を書いてみたいという気持ちはあります。おそらくないと思いますが。

 

Dさんは2人の女児と暮らすシングルマザーである。前号のCさんと同じく彼女もDV被害者である。前夫は子どもたちの前でDさんに暴力をふるっていた。

彼女は2人の子を連れて離婚し転居した。その頃から長女のEさんは変わった。学校に行けなくなり、身の回りのこともできなくなった。Dさんによると、転居することで友人や長女の担任など、支えてくれた人たちと離れたことが大きかった。

DV被害者は加害者から逃れるために多くのものを捨てなければならない。特にそれまでに築いた地域の人間関係を失うことは大きい。なぜ加害者ではなく被害者が大切
なものを奪われるのかと理不尽に思うが、それが日本の現状だ。

子のEさんには知的障害がある。それゆえ環境変化に適応することがとりわけ難しかったのだろう。学校に行けないEさんに対してDさんは手作りの教材で勉強を教えた。誰の助けも得られない中での孤軍奮闘だった。しかしEさんの学校と家庭でのフラストレーションは募り、はけ口を妹のFさんに求めるようになった。Eさんは妹に暴力をふるうようになったのだ。それを止めるために母は体罰を加えた。痛みを知ることで暴力はやむ、と考えたのだという。しかし体罰という名の新たな暴力が加わったに過ぎない。こうして母子の関係は険悪になっていった。

とうとうDさんは「母親に叩かれていると言ったら一時保護所に入ることができる。そうしたら家に帰ってこなくていい」と言うようになった。そして知り合いに聞いた話から、あざを作ればそれが証拠となって一時保護される、と考えてEさんを棒で叩いた。ついにEさんは児童相談所に助けを求め、一時保護された。

私たちのクリニックを訪れたとき、Dさんはそれまでの経緯を一気に語った。このときからDさん家族と私たちの長いつきあいがはじまった。たかが2年ぐらいで時間的にはそう長くはない。しかし、この間にあった様々な出来事の重さが2年間を長く感じさせる。

いかなる理由であろうと大人が子どもを叩くことはあってはならない。しかし、DさんがEさんを叩いたのは、困難な状況から逃れる他の手段を持たなかったからではないか。第三者的に見れば他に手段はあっただろう。しかしDさんは追い詰められて(自殺企図に及ぶ人がそうであるように)精神的視野狭窄に陥っていたのではないか。

その状況をもたらしたのは孤立である。助けを得られないDさんが発したSOSが虐待となったのではないか。それを踏まえれば、Dさんと関わる私たちのなすべきことは彼女を責めることではない。助けることだ。

Dさんと話してすぐに分かったのは母子への支援の乏しさだった。Eさんが保護されてからDさんは繰り返し児童相談所に呼び出されたが、それは支援を受けるためではない。Dさんの話から判断する限り、担当者はもっぱら暴力を振るうリスクを評価しようしていた。一方でDさんが姉から離れた妹のFさんのケアについて尋ねると「私たちには何もできない」という言葉が返るだけだった。

一時保護にいたる経緯を考えれば、Dさんのニーズを評価しそれに基づいて支援することこそが、母子の関係修復に必要であり、それなくしてEさんの家庭復帰はできないはずだ。しかし、虐待した母への支援は児童相談所の任務ではないかのようだった。それどころか「暴力を振るうかもしれない母」として扱われることでDさんは苦しんでいた。これは再外傷化(re-traumatization)と言えないだろうか。

今のDさんに必要なのは支援だ、と私は思った。外来診察だけでは足りない。私は兵庫県加東市で行われているMY TREEプログラム*を紹介した。Dさんの自宅から加東市まではバスで2時間かかる。しかし職場の理解を得て毎週水曜に休暇を取り、彼女はプログラムに通い始めた。

MY TREEプログラムとは森田ゆりが開発した「子どもの虐待にいたってしまった親の回復のためのプログラム」である。「セルフケアと問題解決力を回復することで、虐待行為の終止を目的」に週1回2時間で全13回、約10人でグループワークを行う(この他に個人面接と同窓会がある)。ちょうどこの時期私自身がMY TREE実践養成講座を受けていたが、Dさんにこそプログラムに参加してほしい、と思った。

Dさんは一度も休まずプログラムに参加し、参加することで変わっていった。元気づけられる、何で躓いたか分析していきたい、もっと勉強したい、自分と同じように困っていて支援を受けられない人がたくさんいることが分かった…こうしたすべてのことで力づけられる、と参加中のDさんは語った。後にMY TREEのファシリテーターから聞いたところによると、Dさんの変わりたいという意欲、グループワークでの多くの気づきはグループ内に共鳴を起こし、他のメンバーの変化につながっていったという。Dさんとグループが相乗的にエンパワーされていったということだ。ファシリテーターのことをDさんは「MY TREEの先生」と呼び、プログラム終了後も連絡を取って助言を受けている。

その一方で、一時保護所から児童養護施設に移ったEさんとの接触は叶わなかった。
面会が許されたときは一時保護からすでに1年半以上が経過していた。一度は予定されていた面会が中止された、というコロナ禍の影響もあるが、それにしても長い。

児童相談所の関わりは、先に記したようにDさんの支援にはならず、むしろ専外傷化をもたらすものだった。MY TREEについても担当者は冷ややかだった。Eさんともう一度暮らすためにプログラムに参加していることを伝えても担当者は「それは関係ない」と言った。加東市のように自治体がMY TREEプログラムを行っていたり、別の自治体では児童相談所がプログラムに関わっていたりすることを私は知っていたので、この温度差に驚いた。この間に担当者がしたことはせいぜい、反省文のようなものを書かせることだった。Dさんは「虐待する親だと一生見られ続けるのはつらい」と言っていた。

Dさん母子の初面会からさらに約半年後にEさんは家族のもとに戻った。この間も決してスムーズに事が運んだ訳ではないし、その中で私たちは、家族再統合をめぐる問題や児童養護施設をめぐる問題をあらためて知ることになった。別の機会があればそのことに触れたい。

Dさんは過酷な子ども時代を送った人だ。そして二度の結婚生活でDVにさらされた。そして孤立した状況に追い込まれに暴力を振るった。

「暴力の連鎖」という言葉が否応なしに想起される。しかし、力は自動的に連鎖する訳ではない。そもそも親から虐待を受けた人のうち子を虐待する人はごく一部に過ぎない。**
虐待してしまった人はそれぞれがDさんのように困窮していたのかもしれない。一方で虐待しなかった人はDさんがかつてそうだったように周囲の助けに恵まれたのだろう。そして子を虐待した親はケアと支援を受けることで変わることができる。Dさんが私たちに教えてくれるのはこういうことだ。

Dさんは今、障害者支援の仕事をしている。診察では家庭だけでなく職場での出来事も話題になる。MYTREEプログラムの経験がDさんを支えていることを私はいつも感じる。いつか彼女は過去の自分に似た人を支援することになるかもしれない、と思う。

暴力でなく、ケアが連鎖していくことこそが必要だ。そんな、傷ついた誰もがケアさ
れエンパワーされる社会、すなわちトラウマインフォームドな社会こそ私たちが目指
すべきゴールだ。


*
MY TREEプログラムについては以下を参照。
・森田ゆり『虐待・親にもケアを活きる力をとりもどすMY TREEプログラム』築地書館,2017.

**
幸いなことに、と言うべきだろうか、被虐待児のほとんどは成人してから虐待者となることなく親となっている。みずから決意して「虐待の連鎖 cycle of abuse」を食い止めようとしていることが多い。 生き延びて大人になっても手中に入るものはあまりに少なく、虐待せずに子供を育てることだけが唯一可能な正義にかなった行為となっていることもある。(J. ハーマン著 阿部大樹訳『真実と修復』p58)