『精神看護』連載より ー 身体拘束

 

雑誌『精神看護』に2021年1月号から連載をはじめました。連載タイトル「トラウマインフォームドアプローチが必要なケースの現実を書く」は編集者によるものです。トラウマ・インフォームド・アプローチはクリニックちえのわのミッションの一つで、このブログでも記事を書いてきました。その後、「トラウマ・インフォームド」という言葉は普及しましたが、それにつれて意味が拡散し、中には首をかしげるような使い方も見られるようになりました。なので、連載タイトルに縛られず自由に書くことにしています。実際、今回紹介する連載第1回ではまだ「トラウマ・インフォームド」という言葉を使っていますが、第2回では使っていません。

さて今回、編集者の了解を得て、過去の連載記事に加筆してアップすることにしました。文章に自信はありませんが、テーマは重要なものばかりだと思います。『精神看護』の読者を超えて共有したいと思っています。

第1回のテーマは身体拘束です。文中のAさんは架空の人物ですがモデルが存在します。
病院を訴える話は実際にあったのですが実現はしませんでした。その代わりに、という思いでこの文章を書きました。

Aさんのモデルからは了承を得ています。精神科病院の看護師が主要な読者であることを知らせると、そういう人たちに是非読んでほしい、とのことでした。
ただ、この雑誌の記事の中では異質な、硬派の記事です。多くの読者には他人事ではないはずですが、Aさんや私の思いが届いたかどうかは分かりません。
身体拘束に限らず、強制医療が当事者に及ぼす影響はもっと議論されてよいと思います。強制医療が国際人権法や日本国憲法に照らし合わせて人権侵害であることは言うまでもありませんが、当事者にとってトラウマ体験となることはもっと知られてよいことです。そもそも人権侵害のあるところに必ずトラウマがあります。

ところで文中に出てくる病院は隔離や身体拘束をマニュアルに基づいて行っていました。マニュアル全体を見る機会はありませんでしたが、隔離に疑問を持って看護師に聞いたところ「希死念慮のある患者は隔離」となっていることを知りました。粗雑でかつ過剰な内容と言わざるを得ません。こうしてその病院では強制医療が乱用される中、身体拘束された患者が突然死することもありました。それが特に問題とされることもないことに失望して、私はここを半年で辞めました。なお、この病院はいわゆる「改革派」の精神医療従事者が多い病院で、当時管理的立場であった医師はフランコ・バザーリアの翻訳などもしています。私には矛盾に見えますが、これもまた日本の精神医療の現実なのでしょう。

 

身体拘束

謝罪を求める声

Aさんは1歳の子を育てるシングルマザーである。子育てを手伝う母はかつて夫からの暴力を逃れてAさんたちを連れて家を出た。自身もシングルマザーだ。

12月のある日、Aさんと母を長く支えて来た人からメールが来た。Aさんの母が、以前Aさんが入院した病院に謝罪を求めたいと言っていると。

10年前、Aさんは予期せぬ妊娠をした。産み育てられる状況ではないと考えた周囲の人たちは中絶を強く求め、Aさんはそれに従った。しかし中絶したことの罪悪感を彼女は一人で背負ってしまった。精神的苦痛は日増しに強まり、とうとうAさんは大声で叫んだり暴れたりするようになった。そして医療保護入院となり、隔離され身体拘束された。

入院体験がAさんのトラウマになっていることは私も知っていた。身体が動かず化石になる…自分が死んだ、自分以外の人間が絶滅した…看護師に無視される、人間扱いされない…そんな場面、思考、感情が繰り返しよみがえると彼女は言っていた。

Aさんは父の母への暴言暴力を日常的に経験して育ち、子ども時代に知人の大人から繰り返し性被害にも遭った。そして中絶である。しかし、彼女にとって最もつらい体験、今でも繰り返しよみがえるトラウマ記憶は精神科病棟での体験なのだ。

12月の寒さが隔離室の寒さとリンクしたのか、Aさんは隔離されていた時期の悪夢に悩まされるようになっていた。子のおむつを替えるときの尿臭から、拘束されおむつを当てられていた場面がよみがえると言う。母はAさんから話を聞いて衝撃を受けた。

強制入院とそのもとで行われる強制医療、中でも身体拘束については国際的には半世紀以上前から厳しい批判にさらされて来た。しかし少なくとも日本に限っては下図(注1)のように身体拘束は近年増加して来た。

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記憶に刻まれた顔

私が身体拘束を初めて見たのはちょうど20年前だった。当直医の仕事の一つが身体拘束された患者の診察だったのだ。当時から私は、身体拘束が必要な人は存在するのだろうか、と疑問を持っていた。私自身の医師としてのレパートリーに身体拘束はなかったし、それで困ることもなかった。一方で、当時勤務していた病院は、「最後の手段(the last resort)」とされている身体拘束をむしろ最初の手段であるかのように乱用しているのではないか、とも思っていた。そのせいで余計に、主治医の指示で身体拘束されている人たちに遭うのは痛みを伴う仕事だった。

精神科急性期病棟の隔離室で、ベッドに縛られた患者とどんな会話を交わしたかは記憶にない。身体拘束して大量のハロペリドールを点滴するのがその病院のルーティンだったので、患者は相当量の薬物で鎮静されていたはずだ。どの人も活気がなく、言葉数も少なかったのはそのせいもあるだろう。しかし、今でも忘れることができないのはその顔だ。どの顔も形容し難い苦痛を浮かべている。それは病気による苦しみとは違って見えた。
当時考えたことを憶えている。「この体験は患者に何を残すのか。拘束されていた人の多くは統合失調症と診断されている。それなら再発の可能性がある。再発したとき、患者は入院を選ぶだろうか。それどころか治療自体を拒否するのではないか。とすれば身体拘束は長期予後を悪くするのではないか。」
しかし、何より私の記憶に刻まれているのは、拘束された人たちの苦しげな顔であり、それを見たときのいわく言い難い感情だ。そのとき私はトラウマが生成する現場に遭遇したのだと思う。

身体拘束のトラウマ

身体拘束の与えるトラウマについての研究を見てみよう。Cusackら(注2)は身体拘束を経験した精神医療ユーザーの体験から8つの主題を抽出した。(1)トラウマと再外傷化(2)精神的苦痛(3)恐怖(4)無視された気持ち(5)コントロール(6)パワー(7)静穏(8)人間性の剥奪。例外的に静穏を語る人はいるが、他はすべて否定的インパクトを表しており、広い意味でトラウマに関係している。

Cusackらの研究から引用する。

  • 身体拘束がトリガーとなり虐待経験がフラッシュバックする。身体拘束自体がトラウマとなり、その後の治療を恐れる。(トラウマ/再外傷化)
  • 不安、怒り、スタッフへの不信感。(精神的苦痛)
  • 身体拘束への恐怖からさらに攻撃的になる。(恐怖)
  • 身体拘束をスタッフのパワーを見せつける手段として受け止める。(パワー)
  • 人間以下に扱われたと感じ、それがすでにあった無価値感を強める(非人間化)

身体拘束はノン・トラウマインフォームドな行為の典型であり、患者の回復を妨げるどころか、さらにトラウマを積み重ねる行為であることが分かる。

トラウマインフォームドな視点

身体拘束は精神科医療でのパワーの不均衡がもっとも尖鋭に現れた事象であるが、それが代表し象徴する問題はもっと大きい。古くは宇都宮病院や大和川病院、最近では神出病院に代表されるスタッフによる暴行事件も、例外的と言うより身体拘束と地続きの事象だ。精神科病院では力の不均衡が生じやすく、対人暴力が起きやすい。

それゆえ、身体拘束だけに注目するのではなく、パワーの不均衡とそれが起こる仕組みに目を向けること、すなわちトラウマインフォームドな視点から精神科医療を見直すことが必要なのだ。

身体拘束を中心に据えて見えてくる日本の精神科医療の問題をスケッチしてみた。

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私たちにできること

身体拘束に関連する少なくともこれだけの問題がある。これを見て意気阻喪する人もいるかもしれない。身体拘束を廃絶するためにはこれだけの問題に取り組む必要があるのか、と。しかし私は別の見方をしている。これらのどの問題であれ取り組むなら身体拘束をなくすことに寄与できるのではないか。

2018年、ニュージーランドの青年が身体拘束がきっかけで亡くなり「精神科医療の身体拘束を考える会」が運動を始めた。恣意的拘禁として隔離や身体拘束を通報する取り組みも始まった。2020年には身体拘束と死亡の因果関係を認めた判決が出た。都立松沢病院では身体拘束をなくすための取り組みが行われるようになった。変化のきざしがようやく見えたところだろうか。

たとえば私は、市民として恣意的拘禁について反対の声を上げていくことができる。医師として生物学的精神医学や薬物療法中心の治療へのオルターナティブを求めていくことができる。

そして地域の医師としてできることがある。臨床医としての私にはそれがもっとも重要だ。日々の診療で患者の地域生活を支えて行くのはもちろんだ。その上でもう一つ思い描いていることがある。精神科病院を地域に開いて行くことだ。これについて少し述べよう。

現在の精神科病院は私には閉鎖的に映る。閉鎖的な場であればあるほどパワーの不均衡は生じやすく対人暴力の培地となりやすい。家庭、学校、施設、病院はその典型である。中でも精神科病院の閉鎖性は際立っている。隔離や行動制限に加えて、コロナ禍以前も精神科入院患者に自由な面会は保証されていなかった。

地域医療の視点からも精神科病院は閉鎖的である。一般病院であれば「病診連携」として紹介・逆紹介で地域のクリニックとレギュラーな連携を行い、どの病院も、ネットワーク構築を図っている。一部の病院では一歩進んで、開放型病棟というシステムが導入されている。開放型病棟とは、登録した地域のクリニックの医師が、病院の医師と共同で入院治療に当たる病棟のことだ。

しかし、精神科病院は連携には消極的で、地域のクリニックとの間で、個々のケースについてアドホックな連携が行われるに留まっている。これに風穴を開けることはできないか。精神科病院とクリニックの病診連携がもっとあっていいはずだ。レギュラーな「顔の見える」交流で、地域の精神医療ネットワークを作る。病院主導でなく、当事者を含むすべての関係者が対等なネットワークである。

開放型病棟が導入されればなおよい。日頃からよく知る外来主治医こそが患者の危機に必要なのではないか。そして病院外の医師が病院に日常的に入ることは病院にもよい影響をもたらすのではないか。こうして精神科病院を地域に開くことが、隔離や身体拘束のない医療に寄与できるのではないか。

実現には多くの障壁があることは分かっている。しかしあえて述べたのは、私たちがそれぞれの持ち場で様々なアイデアを出すことが先決だと考えるからだ。地域の精神医療福祉に関係する人々と対話し、精神科医療を変えていくためのブレーンストーミングができないかと私は思っている。

私の応答

Aさんも母も、病院が変わることで同じ体験をする人がいなくなることを願っている。そのために謝罪を求めたいと言う。ただ、主治医としては諸手を挙げることはできない。今も身体拘束を行っているその病院が謝罪するとは思えないし、もし争うとなったらAさんはさらに傷つくかもしれないからだ。しかし、身体拘束の廃絶を目指して私ができることは多いし、同じ思いの人たちとつながって行ける。それが彼らの願いへの私の応答である。


1

姜文江(2018)精神科病院における入院と処遇 法学セミナー2020/02/no.781 024-031

姜によれば「隔離については12時間を超える場合のみ統計をとっており、12時間未満はそもそも統計すらとられていないことも留意すべきである。」

2

Cusack P, Cusack FP, McAndrew S, McKeown M, Duxbury J. (2018). An integrative review exploring the physical and psychological harm inherent in using restraint in mental health inpatient settings. Int J Ment Health Nurs. 2018 Jun;27(3):1162-1176.