誰が「常同症」なのか?(2006)

昔に書いた文章を最近いくつか見つけました。幾分古びているし、ちょっと恥ずかしいのですが、その一部をお目にかけます。

今回は2006年に書いた文章です。文中のエピソードはさらにさかのぼって今から20年前ぐらいのものです。

精神科病棟に長期入院している人の話ですが、こういう患者さんと関わるのが好きでした。クリニックではその機会が少ないのが少し残念です。

この文章には私の考え方がよく現れていると思います。


いつも同じ場所に座り、ひとりごとを言っている人がいた。
ときにけわしい表情になり、ひとりごとは怒気を帯びる。
傍らを過ぎるとき、声をかける。
「具合はどうですか?」
その人はふと表情が変わり、
「よろしいです。」
と言う。口調もひとりごとのときとは違うが、どこか硬い。
毎日のようにこの問答が繰り返される。
同じ言葉、硬い調子。
これは精神医学的には常同症(stereotypy)と呼ぶべきだろうか…。
そう思いながら日々が過ぎていった。

「具合はどうですか?」「よろしいです。」「具合はどうですか?」…。
このやりとりを繰り返すうち気づいた。
そう、自分も同じ言葉を繰り返しているのだ。
自分が医者として「具合はどうですか?」と声をかける。
相手は患者として「よろしいです。」と返す。
むしろ、自分の方が紋切り型(streotypy)だったのだ。
そこから回復すべきはまず自分だと思った。

僕はその人の病室を訪れ、「今日はいい天気ですね。」と窓外を見ながら話すようになった。
返事がないことも多かった。しかしそのうちに「そうだねえ。」と反応が返ってくることが多くなった。
あまり話が広がることはなかった。
しかし、少なくともその場、その時間を共有している、という感じが持てるようになった。

接し方を変えてから二年ぐらいたったとき、その人は「外泊したい。」と言った。
ベテランの看護師にその話をすると、驚かれた。
それもそのはず、その人は20年近く外泊をしていなかったのだ。

自宅への外泊をするうち、自然とアパート退院の話が出た。
何十年かぶりだったが、特に苦労もなく、その人は退院した。

精神医学的な話を少しする。
この人の常同症は狭義の常同症ではないだろう。
常同症とは、脈絡なく、同じ言葉や動作を繰り返すことを指す。
前頭葉の障害と結びつけられて語られることが多い。
精神医学的にはむしろ、発語の乏しさ(poverty of speech)とか、感情の平板化(flatness of affect)などの
陰性症状(negative symptoms)の一種と言う方がよいかもしれない。
あるいは、精神医療に批判的な立場からは施設症(institutionalism)と言われるだろう。

いずれにせよ、この人のような反応は「症状」と見なされがちである。
だが、本当はこれらの「症状」はまず僕の方にあった。
そして乏しく平板で施設症的な医師―患者関係を成り立たせていたのは僕だった。
僕が接し方を変えることで、関係が変わり、相手が変わった。

常同症や陰性症状という精神医学的なラベルを貼る前に、自分たちの振るまいを見つめ直すこと。
常同症や陰性症状を作っているのは、あるいは、そう呼ばれるのにふさわしいのは、精神医療関係者自身なのではないか。

回復すべきなのは誰か?