統合失調症の人との思い出 1 ー Jさんとの散歩

 

1月26日(日)、明石ともしび会家族会でお話する機会がありました。

今回は統合失調症というお題をいただきました。お受けしましたが、今回は、薬の話はしない、ということでご了承いただきました。

薬の話、特に減薬の話がご家族にとって最大の関心事であることはよく知っています。実際、毎回「○○と△△を長年飲んでいるが、減らすことはできないか。」のような質問が出ます。

それを知りながらあえて今回は薬の話をしないことにしました。

その理由は後で書くこととして、以下は当日話した内容の一部に加筆修正したものです。

 

統合失調症について「症例」をあげて、というご注文をいただきました。

しかし、統合失調症はいち臨床医である私には大きすぎるテーマです。それに「症例」という言葉も好きではありません。あたかも病気が先にあってその一例として患者さんを存在するようなニュアンスを感じるからです。

実際には病気を抱えて生きている人がいるだけです。

そう考えると、私は統合失調症についてではなく、統合失調症の人についてなら語ることができるのではないか、と思いました。

医師になって少なくとも最初の5,6年は病棟に勤務し、担当の大半は統合失調症の人でした。

他の医師に比べても病棟にいる時間はずっと長かったと思います。そこで過ごした濃密な時間は、精神科の医師としての私の土台になっています。

その私が関わった患者さんのうち何人かの方についてお話します。すべて統合失調症と診断されていた方です。

Jさんとの散歩

まず、阪神淡路地震後、避難所で状態が悪化して入院になった、20代前半の女性、Jさんのお話をします。

私は当時、医師になって2年目。今なら初期研修医として各科を回るところですが、当時は1年目から精神科に所属していました。

彼女は統合失調症という診断でしたが、幻覚妄想があるかないか不明。そもそも話すことがさっぱり分からないのです。真面目なのかふざけているのかも分かりません。「支離滅裂」とはこういうことを言うのか、と思うような人でした。

最初に使われていた薬はクロルプロマジンでした。古くからある抗精神病薬ですが、実はかなりよい薬です。薬の効果で入院の頃より少し穏やかになって行かれた、と記憶します。

しかし徐々に増量して75mgになったとき、腸閉塞が起こりました。

それ以上積極的に薬を使えません。

薬物療法が駄目なら精神療法?いえ、そもそも会話が成り経ちません。さあ困りました。

何も思いつかないので散歩することにしました。毎日とまでは行きませんが、時間があれば散歩。呼びかけると彼女は手を差し出してきます。そこでお手々つないで散歩です。
ちょっと恥ずかしいものの、病院の周辺を黙々と歩きます。

治療を意図したものではありません。ただ散歩しているだけ。

彼女はしかし、そうしているうちに、少しずつ、本当に少しずつよくなって行きました。

彼女は病棟の看護師たちに人気がありました。今にして思うと、それもよかったのでしょう。回復要因としての人徳?

そしていつの間にか入院から1年経ち、私は研修を終えて、転勤することが決まりました。

そんなある日、彼女が私に手紙を差し出しました。これには驚きました。

手紙には「また会ったら声をかけたいと思います。」などと書かれていました。正直、稚拙な文章です(病気になる前は文章を普通に書けていた人です)。

しかし、1年前は、支離滅裂な文字の連なりを書きなぐっていたのです。見たことがない奇妙な漢字も混じっていました。その彼女からの、気持ちの感じられる手紙です。うれし涙が出た記憶があります。

彼女と関わって、薬を使わなくてもよくなる人はいることを知りました。自然回復と言えるのでしょうか。しかしそうだとしても彼女が回復できたのは環境、特に人との関わりがあってこそだと思います。当時も今も、私はそう信じています。

その後、1年ほど経って、病院の後輩医師にその後の様子を聞きました。彼女はさらによくなっているとのことでした。

珍しい姓だし同姓同名はまずいないはず。最近も気になって検索しました。でも残念ながらヒットせず。彼女は今頃どうしているのでしょう。

もしどこかで会ったら声をかけてほしいです。でもたぶん、彼女は忘れているでしょうね…。