研修医としての2年を終えた私は、山形県の精神科病院で働き始めました。
精神科病院についてよく知られている問題は長期入院です(注)。
私が勤務することになったのも、長期入院者の多い病棟でした。
その病院は退院促進には積極的でしたし、精神科リハビリも熱心に行われていました。それでも退院できなかった人たちも多くおられました。
一つの原因は受け皿の乏しさでした。50代、60代になった患者さんは家族と疎遠になっており、両親はすでになくすでに独立した兄弟姉妹がいるくらい、という方が多く、中には近い親族は甥や姪、という方もおられました。自宅への退院どころか外泊もできない、という方が多かったと記憶しています。
私が受け持ったのはそういう人たちでした。
その中の一人、Mさんは50代の女性で、国立大学に入学後に発症しました。
かつては入退院を繰り返していたようですが、実家は弟さんの代になり、退院しても弟さんの家族と折り合いが悪く続きません。そうしているうちに退院がなくなり、入院が長期化していました。
簡単な会話はできました。しかし、Mさんの関心は私たちの現実にはないようで、「生まれる前の親が…」など私の理解の及ばない話が多く、会話はなかなか続きませんでした。
そのMさんについて病棟スタッフが悩んでいたことがあります。Mさんは突然病院を出て行って行方不明になるのです。
業界用語で「無断離院」などと言います。Mさんに話を聞くと、「子どもの国」というのがあるようです。Mさんはそこに行きたいと言います。それがどこにあるのか、どんな場所なのかは分かりません。聞いてみるのですが、不可解な話になってしまいます。
出て行ってもどこかで見つかって保護されて帰っては来ます。
それでもスタッフはこの問題に頭を悩ましていました。
ある日、Mさんの無断離院についてスタッフと話していたときふと思いました。
無断離院するのは入院しているからだ。退院したら無断離院はなくなる。
Mさんは一方で、「ごはんに毒が入っている。」と言ったりすることもありました。
不本意な入院であることは確かです。
とはいえ、言葉遊びをしているのではないのですから、退院して生活できる見通しは必要です。
退院するとしたら弟さん宅ではなくアパートです。ここにバリアがあります。
20年以上前の話です。現在のように地域の資源がある訳ではありません。訪問介護(ヘルパー)も作業所も利用できません。訪問看護ステーションもありません。
そのような状況で、病院では退院後自立して生活できるよう調理などのリハビリプログラムを行っていました。
しかしMさんはこれに乗って来ません。入院が長引いていたのはそれも一つの理由でした。そもそもMさんは、ある意味、仙人のような、浮世離れした人ですから、乗ってくるはずもありません。
そこで私は、リハビリを条件にするのはやめることにしました。
(本人が)何もしなくても退院できるんじゃないか、と思ったのです。
Mさんについてそう思った理由は2つありました。
- 大学入学後、発病してリタイアするまでアパート生活をしていた
- 弟さん宅で生活しているとき、黙ってどこかに行ってしまうことはなかった
1は「昔取った杵柄」という訳ではないですが、まったく一人暮らしの経験があるのとないのとでは大違いです。もちろんその頃よりできないことが多いとは思います。しかし、かつて経験したことのある一人暮らしをまた始める、というのはMさんにとって分かりやすいでしょう。
2はMさんが黙って出かけるのはやはり入院しているからだということです。「こどもの国」というユートピアは病院というディストピアと対になっている、と言ってよいかもしれません。
退院は意外にスムーズに実現しました。意外ではなかったかもしれません。特に何もやらなかったのですから。
もちろん、退院後はスムーズとは行きませんでした。
Mさんは淡々、飄々と毎日の生活を送っています。
しかし、私たちからすると、問題は山積みでした。
まず食事。
Mさんは毎日毎日、スパゲッティをゆでてしょうゆをかけて食べます。いかにも身体に悪そうで、医師としては一言言いたくなります。
しかし、食事の内容については言わず、食べていればOKと考えることにしました。
もう一つ、こちらの方が大きな問題なのですが、Mさんは金銭管理が苦手でした。
精神科病院では、入院中の金銭管理は患者さんに任される訳ではありません。自由な人から毎日定額を看護師から渡される人まで様々です。つまり、病院側が管理しているのです。その意味、そもそも必要なのかについて今は問いません。
Mさんの場合はどうだったかは憶えていません。しかし、このよう入院中の金銭管理のあり方も影響していたのかもしれません。
さて、1級の障害年金がMさんの生活費です。それが月初めに入金されるのですが、Mさんは早速服を買います。そして残金で1ヶ月生活するのですが、月末になるとお金がなくなってしまうのです。
そこで、週に1回の診察では、まずお金がいくら残っているか、という話から始まります。幸いヒヤヒヤしながらも生活費が月の途中で底をつく、ということはありませんでした。
そんな彼女の生活を支えていたのは病棟の看護師たちでした。地方なので地元に住んでいる人が多いのが幸いしました。
特に頼まなくても、Mさんのアパートに寄ってくれる看護師もいました。そんなスタッフたちに私は「命の危険があったら入院」と言っていました。裏返すと、そうでないときは在宅を続ける、ということです。
一度だけ危ういときがありました。夏場に脱水になりかけたときです。そのときも看護師が病院まで連れてきてくれて点滴で乗り切りました。
こういうやり方に疑問を持たれる方もあるでしょう。先ほども言いましたが、当時はヘルパーなどの支援は使えませんでしたし、訪問看護ステーションもありません。
確かにリスクはあるでしょうが、それを言っている限り、Mさんのような人は一生退院できなかったのではないでしょうか。
もちろんリスクを最小限にすること、Mさんの生活と命を守るのは私たちの仕事であることは言うまでもありません。それは医療者である私たちの責任です。しかし責任を感じるあまり、Mさんをいつまでも病院に留めるとしたら、それは悪しきパターナリズムでしょう。安全のために自由を犠牲にせざるを得ないことはあるでしょうが、それは最小限であるべきです。
私が転勤した後のMさんのことは分かりません。Mさんがアパート生活を続けられたのか、あるいは今でも続けているのか、それとも病院生活に戻ったのか。Mさんの退院を進めたことは私たちが思っていたように彼女にとってよかったのか。もしMさんに会えたら聞いてみたい気がします。
この拙い文章を昨年お亡くなりになった五十嵐善雄先生に捧げます。五十嵐先生とは病院の医局で同室(二人部屋)でした。Mさんについて「よく退院できたね。」と誉めていただいたことが忘れられません。
注
近年は問題として身体拘束が取り上げられることが多いですが、その病院では当時、身体拘束は行われていませんでした。隔離室の使用も、急性期のせいぜい週単位で、長期に隔離されていた患者さんは記憶にありません。