フラワーデモに参加しました

(朝日新聞DIGITALより。著作権の問題があれば削除します。)

5月11日の夕方、大阪市中央公会堂前で行われたフラワーデモに行ってきました。

 

 

性被害「正しく裁かれる社会を」 250人、無罪に抗議(朝日新聞)注1

集会では参加者が次々と個人的な体験を交えてアピールしました。怒り、悲しみがその顔や声から読み取れました。涙ながらに語る人もいます。

もっと冷静に、普遍的なことを話すべき[注2]、という意見もあるかもしれません。

でも、そうでしょうか。自分の言葉で、自分の声で話すことが何より大切だと私は思います。それでこそ人を動かすことができるのです。そして感情の背後には理性が、個人的なことの背後には普遍性があります。

それを読み取るのは、聞く側の責任です。
声は聞かれなければなりません。すべての人に人権があります、すべての人が人として尊重されなければなりません。それは、たとえば、子ども、女性/LGBT、障害者、外国人のような、力を持たない、あるいは力を奪われた人々にとっては命に関わることなのです。

参加者は若い人が中心で、少ないながら男性の姿もありました。私はそこに希望を持ちました。傷ついた人を支えたい、ケアしたい、と私は思っています。それがクリニックちえのわの役割です。しかし傷つくこと自体をなくしたい、と思います。そういう未来は実現可能なのです。
そう思えたフラワーデモでした。

(山田)


注1
判決への抗議は感情的だと批判する弁護士もおられます。しかし、明らかにおかしいものをおかしい、と怒りの声を上げることの何が悪いのでしょう。

クリニックちえのわでも日々、性暴力サバイバーたちが、社会のいたるところにある壁に彼らの声が阻まれ更に傷つけられ、ということを目の当たりにしています。裁判所だけ見ても不当判決や不当決定と言いたくなることはよくあります。果たしてこの社会に正義はあるのか、と疑わしくなります。

それは法律論以前に「不当」なのです。

注2
冷静に、普遍的なことを話すことで人が動くこともあります。

しかしそれは、発言に話し手の感情や個人的な体験の裏打ちがあり、それが聞き手にも伝わる場合ではないでしょうか。裏打ちのない単なるおしゃべり、「正論」の類は人を動かす力を持ちません。